ちんとんしゃんてんとん

好きな娯楽、ダラダラ日記、生活のことを書いている

新しいことに飢えている

30も後半に入り、ふともう新しいことなんて意識的にやらないと起こらないのでは・・・となんとなく、別に持たなくても良かった危機感を抱いた。別に新しいことなんてなくても楽しく生きていける。私には映画もあるし、漫画もあるし、配信サービスもあるし、何よりお子がいる。自ら別に新しいを求めなくても、向こうから楽しみがやってくるようなものばかりだ。

でもなんだろう、この言いようのない寂しさ。自分で求めなくても新しいものが勝手にやってくるという、変に自分の欲望を必要とされない生活が進んでいくのはきっと生活しやすいのではあるのだろうけど、何かモヤった。これが正解なのか・・・いや、正解とかではなく私は満足できるのだろうか・・・?

もちろん、正解にしていくしかない部分はどうしてもついてまわる。これで良かった、と思ってやっていくしかない、ここまできたら。それでも脱線をしてみたくなる。

 

ということで、なんか新しいことに挑戦し始める、というのが続いている。上記のことは、今回言語化してみたけれども、後付け部分も多い。上のようなことをぼんやり考えていたら、新しいことをぼんやり始めていた、というのが本当のところだと思う。

 

まずは大嫌いだった納豆を習慣的に食べてみることにした。

どれだけ挑戦しても苦手だった納豆は、なんとなく食べられるようになった。まだ1パックまるごとは無理だし、梅のタレでないとあまり美味しさを感じられないが(と言いつつ、梅のタレでも美味しくなさも感じている)

キッカケは映画の『ファーザー』で認知症怖いを患ってしまった結果、納豆を食べようということになったからだ。(色々すっ飛ばした)なんかコリン?とかいうのがいいらしい。

そもそも嫌いなものを定期的に食べてみることが新しいことに該当するのかなと、思ってしまったが、私には新しい視点を得る挑戦のように感じた。なんか知らんが、私の周りは大体納豆が好きだ。あんなに美味しくないのに、みんな美味しそうに食べている。自分だけ(ってわけではないけど)その美味しさを分からないなんて、みんなが持っている視点を自分だけ持っていないような気がして嫌だった。(あくまで自分がそんな気がしただけ)しかも体にいいときた。私は納豆が大嫌いだったけど、憧れがあった。

納豆のどこが嫌いかというと、食感も苦手、後味も苦手、匂いも苦手、とにかく全てが苦手だったけれど、何回も食べていくうちに一つ一つクリアされていった。食感は小さい豆のものなら我慢できる、後味は梅味のタレならまぁ気にならない、匂いは慣れていった。何より驚いたのは、苦手だった頃には気づかなかった大豆の味だ。当たり前なのだけど、納豆は大豆でできているということをその時実感した。大豆は好き。

他にも色々始めたけれど、なんだかんだ新しいことは楽しい。もちろん、自分に無理のない範囲だけど。なんか新しいことを始めたり、学んだりするのは、新しい自分になっているようで面白い。

それはなんとなくお子と暮らしているからかなとも思う。お子は日々新しいお子になっているように感じるからだ。身体的な成長はもちろん、機嫌や考えることも、昨日と地続きだけれど、それでいて新しいお子のようだ。それが見ていて面白いし、私も憧れていたのだと思う。

それとは違うやり方だろうけど、私も新しい自分になっていくのを楽しみたいと思う。